日本唯一のデジタル家系図

安心の永年保管

名字由来netの家系図作成サービス

名字・家系調査の実績No.1『名字由来net』では、専門的なノウハウが必要な戸籍調査、戸籍の解読、家系図作成、さらに戸籍以上の「専門調査」までを、家系図作成を含めた10,000件以上の実績のある名字調査、家系調査のプロが実施いたします。

調査結果をまとめた報告書、家系図、さらに弊社だけのオンラインで編集できる家系図を納品させていただきます。

多くの方にご満足いただいております

福岡県 N様
2021年11月18日

名字由来netに昔から興味があった。ネットで探す際、時々利用していた。
家系については無口な父親から生前何も教えてもらえなかったので、いつか調べたいと考えていた。今回、家系図作成サービスがあることを知りお願いすることになった。
子供に伝えることができることが一番よかった。
江戸時代まで遡れたことがよかった。江戸期の◯◯(ご先祖の出身地域の)当時の様子を更に調べることが今後の楽しみの1つになった。

神奈川県 O様
2021年09月06日

丁寧で良かった。思っていたより良い報告があったので良かった。

子孫に残せるものができて良かった。
満足しました。

兵庫県 Y様
2021年08月30日

お世話になりました。何年も前からnetを見ていて信頼できると思い依頼しました。丁寧でとても良かったです。
デジタル永年保管、時代背景を教えていただいたことが良かった。それを見ると現状との繋がりが理解できました。
祖母は名前と最後に住んでいた場所がわかっていたが、生まれて亡くなるまでが分かり驚きと祖母のことがわかり嬉しく思います。
丁寧な書類ありがとうございました。

埼玉県 M様
2021年06月27日

専門的で良かったから依頼。丁寧に戸籍が調べられ、一つの区切りになりました。
アドバイスもいただき、大変ありがたかったです。
家系図アプリも使ってみて、また折を見て本格調査ができればと思います。
今回は大変お世話になりありがとうございました。

神奈川県 M様
2021年06月27日

インターネットで調べてもっとも信用できそうだった。
後から付加できること、みんなで見られることが良い。
四系統依頼しすべて江戸期まで判明したことが良かった。

ご先祖が喜んでくれている気がします。
父の母方の先祖の姓は珍名でした。どんな家系なのか興味が湧きました。

広島県 M様
2021年05月23日

どんどん年をとり、世の中も変わってきている。昭和の子供の頃に祖父や祖母と暮らしていたことを懐かしく思うことが増えた。
戦争を生き延び、苦労話を聞いていたが、幸せだったのだろうかと思い、家系図作成をお願いした。
家系図作成サービスを利用したことで、祖父や祖母に言われて記憶していることが、やっと理解できた。家系図を見て、複雑さに驚いた。
家系図だけでなく、戸籍を集めてもらったので、自分で読んで、子供の記憶を理解しはじめた。満足。自分ではなかなかできない。

福岡県 S様
2020年11月25日

とても詳しく、そして深く調査していただいたこともですが、何よりとても親切、親身な対応、メールなどが一番よかったと思いました。
本当にこの度は大変お世話になりました。自分では想像もしていなかったご先祖様、名字の由来にびっくりしたと同時に大変感動いたしました。
御社に依頼させていただいて本当によかったと思いました。自分のルーツがわかり、お金では買えないくらい素晴らしい調査、資料を本当にありがとうございました。心から感謝いたします。

東京都 M様
2020年08月17日

現在、◯◯県にある墓は長女の自分が最後になるため、深く先祖の歴史を知ってから、墓じまい(永代供養)しようと検討していました。
江戸時代の身分、職業、文献調査も全て想像以上に調査していただき満足しています。
先祖が◯◯県から来たことは知らず、商人をしていた理由もわかりました。◯◯県の文献にも記録があったことに驚いております。
今後、追加で調査依頼することがある場合には、なにとぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

東京都 S様
2019年11月29日

インターネットでたまたま見て、アプリもあり、コメントなどを見て知りたくなりました。
家系図作成は昔の字が読めないし、調査も非常に大変だと思いました。感謝したいと思います。
誠にありがとうございます。今後も改めて追加しようと思います。

東京都 N様
2019年10月20日

丁寧でよかった。江戸時代まで遡れたこと。先祖のつながりが判明してよかった。
自分ではとてもできないことであったから満足。
今回の調査について、ありがとうございました。

家系図作成でわかること

「我が家にも家系図を残したい。」

戸籍調査では、ほとんどのお客様が150年以上前となる江戸末期のご先祖様に辿り着くことに成功しております。
戸籍調査以上の調査を行うことで、当時のご先祖様の暮らしぶりがわかったり、文献・古文書の調査では、なんとご先祖様のお名前を発見できることもあります。

家系図でルーツを辿る旅に出よう

「ご先祖様について知りたい。」
「祖父母までは知っているけど、その上のご先祖様はどんな人たちだったのだろう?」

ご先祖様とあなたの家系図が、お子様やお孫様、子子孫孫にまで、半永久的に編集可能なデジタルデータとして残る名字由来netで家系図を作成し、ルーツを辿ってみましょう。



MNKニュースでは、名字・家紋・家系図・神社・お寺など、日本文化に特化したニュースを日々配信しています。

江戸時代の庶民は名字使用を厳しく禁じられていた

名前は一つだけ

地名発祥と訓読みについて

名字や家紋のユーザー投稿

畠山さん
石川県の旧河北郡宇ノ気町史の中の上田名地区記述によれば、「肝煎と岡部家」として村には制限された自治が許されておりその責任者としての村役人のうち、首長を肝煎といい、その肝煎を勤めたのが、上田名村では岡部本家である。

岡部家は、上田名随一の旧家で、江戸時代初期は十村であった。初代岡部随林は、羽咋郡紺屋町村の郷士岡部弥八郎の嫡男になっているが、実は岡部家の過去帳(洞谷山永光寺護国禅寺)によると、畠山義則(=義綱)の二男で、妻は七尾城が落城したおり、上田名地区にあった道満寺にかくまわれていた畠山重則の息女であったとなっている。

過去帳ではそうなっているが、「重則」とある記述が誰かはわかっていない。「随林」に関しては、畠山義隆の弟として、Wikipedia内にも記述がある。この「洞谷山永光寺護国禅寺」は、峨山禅師が、現在は祖院となっている曹洞宗総本山の一つ「總持寺」と双方の住職を務めていた寺。

この岡部家は、長い間永光寺の門徒総代を務めている。上田名地区に住み着いたのは、当時の村の有力者「甚右エ門」(田中甚勇家)の尽力があったものと思われる。

天正10年(1582)末森の合戦の戦功により、天正12年(1584)金津庄の村々の山役銭(十村役)を拝領することとなった。そのあと二代目弥左衛門・三代七兵衛・四代弥左衛・五代義右衛門・六代弥左衛門・七代義右衛門・八代茂助・九代弥左衛門・十代弥八郎と代々肝煎を勤め、上田名村を支配している。

となっている。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
三河畠山氏(足利氏の一族)は、室町時代、室町幕府奉公衆として、畠山宗元が三河国志貴荘に下向。

志貴荘の荘館である安城古城を本拠にした。その後和田氏と改め、和田親平の代に、安祥城を築城して移る。安祥城は、松平信光の奇襲で落城した時の城主は、徳川実紀によると、畠山加賀守某という。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
鎌倉時代に源姓畠山氏から分かれた一族としては、日向に畠山氏の庶流の一族がある。また、失脚し没落した畠山国清の子孫の系統が存続したとされる(西谷内畠山氏)。薩摩に下向した一族もあり(阿多氏)、島津氏の家臣長寿院盛淳(阿多盛淳)は、その子孫である。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
源姓畠山氏の祖・足利義純の子孫のうち、義絶した新田家の娘との間の子らは、岩松氏となる。

岩松家は新田一門として活動、後に新田家の末裔を称した(詳細は岩松氏を参照)。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
尾州家は金吾家から別れ、主に紀伊国と越中国に勢力を有した。

文明9年(1477年)に終結した応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長は管領となったが、文明17年(1485年)に山城国一揆が起こり失脚、山城守護の任を解かれた。

その後、細川政元と対立する10代将軍足利義材に政長は重用され、明応2年(1493年)には、遂に将軍自らによる畠山総州家討伐が実行された。

しかしその遠征中に細川政元、日野富子によりクーデターが起こされる。

政長は子の畠山尚順を逃して討ち死にし、足利義材は将軍の座を失った(明応の政変)。

紀伊に逃れた畠山尚順は、足利義材を擁して、周防国から上洛した大内義興や細川高国と結んで船岡山合戦に参戦、総州家の畠山義英を破った。しかし管領には、細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。

尚順は領国運営の為、嫡子の畠山稙長と二元政治を行なった。

その後、管領・細川高国と将軍・足利義材が対立すると、稙長は細川高国、尚順は足利義材に味方して永正17年(1520年)に尚順は堺に追放された。

しかし、畠山稙長も天文3年(1534年)に遊佐長教により追放され、その後はも畠山長経、畠山晴熙、畠山弥九郎と尾州家の当主が短期間に交代、太平寺の戦いに乗じて稙長が再度復帰、稙長没後は畠山政国が名代となる。

天文20年(1551年)に遊佐長教が刺客により暗殺されると、政国の子の畠山高政が実権を復した。

高政は、三好長慶、三好実休、三好三人衆と争い、足利義昭や織田信長と結んだ。

その後高政は隠居したが、天正元年(1573年)に信長派だった弟の畠山秋高が義昭派の遊佐信教に殺され、河内守護家は滅亡する。高政は河内奪還を図るも果たせず、天正4年(1576年)死去した。

その後高政の弟・政尚の子である畠山貞政は、紀伊に拠点を移し勢力を盛り返した。貞政は徳川家康と連携するなど、羽柴秀吉に対抗した。

しかし後に、豊臣政権により放逐され尾州家は全領地没収という形でついに完全に滅亡した(紀州征伐)。

貞政の子である畠山政信は、大和で放浪中豊臣家重臣の片桐且元に出会い、片桐家に仕官することとなった。人柄を認められ且元の娘婿となり片桐家重臣となる。

政信は能書家としても極めて有能であり、豊臣秀頼の祐筆として且元に推薦されることによって豊臣家の直臣となった。

しかしやがて片桐且元が豊臣家から徳川家へと主人を変えると、且元の近親であった政信も豊臣家にいづらくなり豊臣家を退散。その後、徳川家光の代に徳川家へ仕えた。

政信の子孫は、江戸幕府の高家の内の一家となって、その後も幕末まで家系は続いた。明治維新後の当主畠山基永は足利に復姓し士族。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
総州家は金吾家から別れ、主に大和国と河内国に勢力を有した。

応仁の乱の最中、山名宗全と細川勝元が死去したのち、東・西両軍の和睦が進められる中、畠山義就は講和に反対、文明9年(1477年)9月21日に畠山尾州家の政長討伐のため、河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐長直を、若江城から追い河内を制圧した(若江城の戦い)。また、義就派の越智家栄と古市澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の11月11日、東西両軍の間で講和が成立、西軍は解散した。

文明14年(1482年)、幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。

義就の跡を継いだ畠山義豊は、明応2年(1493年)に10代将軍足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、細川政元と同盟した義豊は、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。

政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れた。しかし、明応6年(1497年)、義豊の家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡、明応8年(1499年)に河内で戦死した。

義豊の子の畠山義英は細川政元の後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めたが、義英は畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した。

更に、永正4年(1507年)に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪い返した。その後の両細川の乱において、義英は阿波国の細川澄元の娘を子の畠山義堯の妻に迎えて同盟し、足利義材を擁する細川高国、大内義興、畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けた。

畠山義堯は、重臣の木沢長政の補佐を受けて大永7年(1527年)、細川高国が桂川原の戦いに敗れて高国政権が崩壊すると、阿波国の細川晴元が擁していた足利義維が和泉国堺に上陸し、堺公方が成立した。

義堯は管領に就任、阿波細川家の重臣の三好元長と共に細川高国派の朝倉宗滴と戦っている(川勝寺口の戦い)。

さらに、享禄5年(1532年)三好元長と共に、離反した木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲、戦局を優位に進めていたが、木沢長政の支援に現れた一向一揆に敗れて、義堯は自刃した(飯盛城の戦い)。

家督は義堯の子の畠山在氏が継いだ。しかし実権は木沢長政が掌握しており、天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて木沢長政が三好長慶と遊佐長教により敗死すると、木沢長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡した。

なお在氏の子、畠山尚誠は足利義昭の上洛を助け、義昭による足利将軍家継承を実現させた。これには、尾州家も協力した。その後の消息は不明である。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
高国の弟・貞国の系統。

代々、衛門督や衛門佐に任じられたため、金吾家(金吾は衛門府の唐名)とも称された。

本来の嫡流である奥州畠山氏が冷遇されていったのと対照的に、庶流である畠山国清は知勇に優れていたため重用されており、紀伊国および和泉国の守護に任じられ、後に河内国の守護にも任命され、河内畠山氏の始まりとなった。

観応の擾乱において、国清は当初は直義派であったが、嫡流で尊氏派であった高国・国氏父子の敗北した後まもなく尊氏派に鞍替えして、没落した奥州畠山氏に代わって畠山氏の惣領格となる。

鎌倉の足利基氏を補佐する関東執事(関東管領)として活躍、さらに将軍足利義詮の執事細川清氏と共に仁木義長を追放して一時中央の政務を壟断したが、のちに義詮や基氏と対立し失脚、河内畠山氏は畠山国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれる。

義深の子の畠山基国は、当初は鎌倉公方に仕えていたが、次第に足利義満の側近化して京の室町幕府を中心に活動するようになり、管領家の細川京兆家と斯波武衛家が対立する中で第三勢力として台頭、能登国の守護職を獲得、のちに畠山氏の人物として初めての管領職に任命される。

これ以降、河内畠山氏は代々管領を輩出する家柄となった。

ちなみに現在の京都市上京区畠山町は、この付近一帯に管領畠山氏の邸宅があったことに由来する地名である。

畠山満家・畠山持国は、管領として幕政において重きをなしたが、持国の後継を巡り畠山政長と畠山義就の子孫が互いに争い、応仁の乱後も両家が分裂し、内紛を続けた。西軍であった義就流畠山氏は官途の上総介から総州家、東軍であった政長流畠山氏は官途の尾張守から尾州家をそれぞれ称した。


応仁の乱前後、畠山氏家臣団はそれぞれ政長方、義就方に分かれるなど混沌とした。

戦国時代になり、畠山氏の当主の権力が弱くなるにつれて、在地勢力でもあった「国人衆」・「大和衆」が力を有するようになったが、守護代として権力を掌握した遊佐氏・神保氏は「鎌倉衆」「鎌倉以来」の家柄であった。

畠山氏家臣団は大きく分けて、出身により「武蔵衆」、「足利衆」、「鎌倉衆」、「国人衆」、「大和衆」の五系統に分かれる。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
坂東八平氏一族・秩父重弘の子・秩父重能が、武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て、畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山氏)。

治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。

重忠はのちに北条時政と対立、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で、北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。

その後重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女と婚姻し、継承された(源姓畠山氏)。

義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった。

桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏はここに消滅、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。

義純の家系(源姓畠山氏)は、名門・畠山氏の名跡を継承したことから、後に足利一門の中で別家扱いの足利尾張家(武衛家、つまり斯波家)に次いで高い序列に列せられており、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を、足利宗家から受けることになる。

紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。


建武3年(1336年)に足利尊氏が室町幕府を創立、畠山氏はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。

足利家内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清は、足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、一方で畠山氏嫡流の畠山高国・国氏父子は、観応2年(1351年)直義派の吉良貞家に敗れ自害、国氏の子二本松国詮は二本松に移った(奥州畠山氏)。

本来の嫡流である奥州畠山氏が衰退する中で、畠山国清の家系(金吾家)が畠山氏の惣領格となる。

国清は関東管領に任命され東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立、康安元年(1361年)に失脚した。

国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深が、のちに守護に任命され畠山氏を再興させる。

義深の子・畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱で功績を挙げるなどして足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど、守護大名として力をつける。

応永5年(1398年)には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家や細川京兆家とともに、三管領家として名を連ねる家柄となった。

基国の子・畠山満家は義満には冷遇されたが、足利義持の代になって表舞台に復帰、管領に就任する。


満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む足利義教の干渉に苦しめられるが、畠山氏の内紛を鎮めて細川家や山名家と拮抗する勢力を維持した。

しかし持国の子畠山義就と、甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。

文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(総州家)と政長流(尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。

また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。

越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが、尾州家の紀伊だけは、最後まで勢力を保った。


江戸時代においては尾州畠山氏と能登畠山氏が、高家として残った。明治維新後、尾州畠山氏の当主畠山基永は足利に復姓、士族に編入された。

能登畠山氏の方は畠山姓のまま士族となった。

1884年(明治17年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元高家が元交代寄合とともに男爵に含まれており、足利家(尾州畠山氏)と能登畠山氏も男爵を授けられるべき家にあげられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も対象外となったため、結局両家は士族のままだった。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
畠山さん
奥州二本松城に拠った、かつての奥州四管領の一雄・畠山氏後裔にあたり、二本松畠山氏、二本松氏とも呼ばれる。

源姓畠山氏祖・足利義純の嫡流は、本来この二本松の奥州畠山氏であったが、観応の擾乱において、畠山高国・国氏は足利直義方の吉良貞家に敗れ自害、国氏の子二本松国詮は二本松に移ったが、戦国時代には一国人にまで衰退した。

天正13年(1585年)、当時の当主・二本松義継が、伊達氏との抗争の中で討死、国人領主としての二本松氏も滅亡する。

義継の次男である二本松義孝は、蘆名氏や佐竹氏などに仕えた後、徳川氏譜代大名である水野氏に仕えた。

水野忠邦の転封運動に反対し、諌死した家老・二本松義廉はその子孫である。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
西角井さん
西角井家は明治以前は代々、大宮氷川神社の社家を務め、埼玉県大麻(おおぬさ)頒布事務所を務める名門であった。

西角井正男は國學院大學卒業後、埼玉師範学校教諭、一時は大宮町長も務め、さらに氷川神社禰宜から上総一宮玉前神社宮司になっていた。

母・佐登子は、國學院大學学長河野省三の姉であり、女子学習院では貞明皇后と同期であった。西角井正慶は、折口信夫より「よい星の下に生まれた人」といわれた。
【投稿日】2026年05月22日 【投稿者】匿名さん
郷田さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】隅入り角四つ目三つ巴
【都道府県】広島県

隅入り角
四つ目
左三つ巴
【投稿日】2026年05月19日 【投稿者】ポポさん
川田さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】六角に三本引き
【都道府県】神奈川県

祖父の代まで、徳島県在住の川田家。
農家を営んでいたようです。
【投稿日】2026年05月18日 【投稿者】Seiさん
鈴木さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】稲穂
【都道府県】茨城県

残念ながら、家紋の詳細は承知しておりません。
【投稿日】2026年05月18日 【投稿者】半次郎さん
鈴木さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】抱き稲穂
【都道府県】神奈川県

稲穂が抱き合っている
【投稿日】2026年05月16日 【投稿者】ロンさん
由良さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】丸に二の角字
【都道府県】徳島県

私の祖父が由良家。現在は兵庫県在住。
【投稿日】2026年05月16日 【投稿者】みのさん
尾㟢さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】沢瀉
【都道府県】広島県

曽祖父は倉敷の出身と聞いています。 尾嵜、正式には尾㟢。山大可を縦1行に書きます。
【投稿日】2026年05月14日 【投稿者】たまみずさん
さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】丸に橘
【都道府県】東京都

なぜでしょうか 全くわかりません
【投稿日】2026年05月11日 【投稿者】わわあさん
古賀さん みんなの家紋のはなし
花菱
【家紋名】花菱
【都道府県】山梨県

清和源氏/甲斐源氏武田氏族の古賀氏の祖の【新羅三郎義光/手島義光】の家紋。
【投稿日】2026年05月07日 【投稿者】鳥堂の友達さん
高橋さん みんなの家紋のはなし

【家紋名】吉
【都道府県】北海道

丸に土佐柏(土佐藩主 山内家の家紋)土佐を代表する家紋のようです。吉の字だけ見ると、高橋の家紋ととても似ています。
【投稿日】2026年05月07日 【投稿者】コウジさん
近藤さん みんなの家紋のはなし
花菱
【家紋名】花菱
【都道府県】山梨県

清和源氏/甲斐源氏武田氏族の近藤氏(佐久郡に住した落合信実)の祖の【新羅三郎義光/手島義光】の家紋。
【投稿日】2026年05月06日 【投稿者】鳥堂の友達さん