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戸籍調査以上の調査を行うことで、当時のご先祖様の暮らしぶりがわかったり、文献・古文書の調査では、なんとご先祖様のお名前を発見できることもあります。
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家系図でルーツを辿る旅に出よう
名字や家紋のユーザー投稿
| 倉掛さん |
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| オカンの旧姓が倉掛(くらかけ)です。出身は兵庫県の丹波です。先祖は武士だそうです。姓の由来を聞いた事が有るのですが、大名だか奉行だかの倉を管理していたと聞いてます。『倉に鍵を掛ける』という役職だったとか。本当かどうかは分かりません。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】末裔さん |
| 榊原さん |
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水戸藩士榊原氏。 榊原清政(康政の兄)の外曾孫石野照明が榊原を称したことに始まる。照明は水戸藩主徳川光圀に仕えた。照明には男子はおらず生家の石野家から、篤郷を養子に迎えた。 篤郷の娘美衛(智仙院)は徳川宗翰の側室となり治保を生む。篤郷の玄孫照煦は天狗党の乱にて捕縛、古河藩にて切腹した。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】匿名さん |
| 榊原さん |
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清和源氏仁木氏流の榊原氏は、伊勢国発祥の氏族。 室町時代前期の北伊勢守護であった、仁木義長の9代の後裔・清長が、伊勢国一志郡榊原村(現三重県津市榊原町)に移住、地名をとって榊原を号した。清長は榊原城を拠点とした。 清長の子・氏経は北畠家に属したとされ、永禄年間に大和国で戦死。氏経の子・刑部少輔、刑部少輔の子・三左衛門尉まで代々榊原城を根拠とした。 天正4年(1576年)に北畠氏が滅んだ後に、三左衛門尉は織田信長に属す。天正12年(1584年)には織田信包に仕えており、伊勢国奄芸郡中山に移った。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】匿名さん |
| 榊原さん |
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三河榊原氏は、中世に三河国を拠点として江戸時代に譜代大名となり、維新後に華族の子爵家に列した。家紋は源氏車。 清和源氏仁木氏流の榊原氏一族とされ『寛永諸家系図伝』には、仁木義長の子孫であることが記されており、『藩翰譜』によれば、「式部少輔源康政は、伊勢の仁木が流れなり。右京大夫義長の後胤、一志郡榊原の住人、七郎右衛門清長、三河国に移りて、源蔵人殿〔松平親忠〕に仕え奉る」とあり、また『寛政譜』にも榊原清長が伊勢から移住したことが記されている。 『伊勢名勝志』は.清長が三河国に移り住んだ時期について、疑問があることを記している。 三河に移った榊原氏にも複数系統あり、後年大名になった榊原氏は、その中でも分家筋だったとする可能性もある。 戦国時代には松平氏に仕え、のちに累進する榊原家は、松平氏傘下の酒井忠尚に仕える陪臣であったとされる。 酒井忠尚は、三河一向一揆と同時期に居城を中心に松平家に反旗を翻して、代わって榊原氏は松平家に与し戦功を挙げた。 ただしこれ以前から榊原康政が家康の小姓に取り立てられているため、三河一向一揆以前より、榊原家は陪臣の域を越え、松平本家と直接の関与があったと思われる。 三河一向一揆で初陣を飾り、旗本先手役を新設した徳川家康に抜擢された康政は、本多忠勝と並んで頭角を現し、徳川四天王、徳川十六神将に数えられ、上野国館林藩主となった。 康政子孫はこの藩祖の功績により、江戸幕府において有力な譜代、親藩となる。 康政の子・康勝(三男)は嗣子無きまま、大坂の陣の際に持病の痔が悪化し死亡した。 榊原家は断絶しかけるが徳川家康の介入により、康政の長男で母方の大須賀家を相続していた大須賀忠政の子の忠次が榊原家を継承。これにより大須賀家は廃絶した。 のちに康勝には勝政という隠し子が存在し、榊原家重臣らが意図的にこれを隠匿していたことが発覚した。 伝承では重臣達は配流されたとされているが、幕府の記録では却って徳川秀忠より所領を与えられ、御付人(御三家の御附家老にあたる)の祖になったと伝えられている。 後に勝政は幕府に取り立てられ、子の代より旗本榊原家となる。 忠次の孫の政倫が嗣子無きまま19歳で死去。榊原式部大輔家は5代で一度断絶しかけた。 親族の大名家による家名存続活動が実を結び、前述の旗本榊原家より養子の政邦(康勝の曽孫)が入り断絶を免れた。その子政祐の死去の際にも勝政系旗本榊原家から政岑が末期養子に入っている。 榊原政岑は将軍徳川吉宗倹約令に従わず贅沢を尽くし、吉宗の怒りを買い、蟄居・隠居および姫路藩から越後高田藩への懲罰転封をされた。 表高は15万石のままだったが実高は半減。このことが明治に至って榊原家の爵位に響くことになる。 その跡を継いだ政純は、政岑の死後まもなく夭逝、またも断絶の危機を迎えたが、幕閣から内密の了承を得て、死んだ政純の身代わりに弟の政永を秘かにすり替えることで存続した。 これら懲罰などを重ねつつ榊原家が取り潰しにならなかったのは、藩祖康政の功績が考慮されたことと、最初の断絶の危機の際に家康が直々に家の存続を命じたことで、以降の幕府もその例に倣ったものと考えられる。 幕藩体制下では下記のように、さまざまな藩地に転封されているが、越後高田に入って以降は落ち着いた。 1590年 - 1643年: 上野国館林藩(群馬県館林市) 1643年 - 1649年: 陸奥国白河藩(福島県白河市) 1649年 - 1667年: 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市) 1667年 - 1704年: 越後国村上藩(新潟県村上市) 1704年 - 1741年: 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市) 1741年 - 1871年: 越後国高田藩(新潟県上越市) 越後高田藩第6代(最後)藩主・榊原政敬は、譜代大名の立場もあって、鳥羽伏見の戦い直後の頃、政府に対して徳川家改易を免除するよう嘆願し、徳川慶喜に対し政府に謝罪すべきことを諫言するという、「哀訴諫諍」の立場を取っていたが、佐幕派の旧幕臣古屋佐久左衛門の隊が、高田藩の領内を通過して官軍の尾張藩軍や松代藩軍に攻撃をしかけた事件が起き、高田藩は尾張藩や松代藩から糾弾された。 高田藩が古屋隊を強襲したので高田藩の関与の疑惑は不問となったが、これを契機に官軍に鞍替えし先鋒として参戦、長岡藩や会津藩の征圧に参戦して大いに戦功をあげる。 戊辰戦争終結後には松代藩と共に降伏した会津藩士の御預を命じられる。 明治2年(1869年)6月2日に戊辰戦争の軍功により榊原政敬に1万石の賞典禄が永世下賜。 版籍奉還により同月18日に政敬は高田藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県に伴う解任まで藩知事を務める。 高田藩が政府に届け出ていた藩札は15万両だったが、廃藩置県後、柏崎県で旧高田藩藩札を整理したところ1万3000両以上余分に発行されていたことが発覚。関係者の取り調べの結果、旧高田藩会計方が規定額より3万両多い藩札を貸し付けることで利息を取っていたことが判明した。 この件の処分は柏崎県の後身の新潟県に任されたが、県令楠本正隆は直接犯行に及んだ旧藩士8名を逮捕して禁固70日間に処しつつ(うち1名は割腹自殺)、旧藩主榊原政敬については、政府への忠誠と功績を評価していまさら責任を問う必要なしと寛大な処置を取り不問にす。 廃藩置県の際に定められた家禄は4841石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額2500石)の合計7341石と引き換えに支給された金禄公債の額は、13万1465円77銭5厘(華族受給者中54位)。 明治17年(1884年)の華族令の施行により華族が五爵制になったが、旧高田藩の現米は4万8410石だったため、旧大名家から伯爵に選ばれる基準である現米5万石にはわずかに足りず、現米5万石未満の旧小藩知事として子爵に列した[14]。子爵家の中では現米・表高ともに最大であった。 同じ表高で榊原家の後に姫路藩主となった酒井家の方は現米5万石以上で伯爵になっており、政岑の代の高田藩への転封が明治にまで祟る形となる。 伯爵位を欲した政敬は、明治22年(1889年)、明治24年(1891年)、明治25年(1892年)、明治33年(1900年)の四度にわたって伯爵陞爵の請願を行っている。維新の功で陞爵があった真田家、佐土原島津家、大村家、吉川家、成瀬家、亀井家など他の諸侯を引き合いに出して榊原家の維新の功はそれに劣らぬものであることを訴えて榊原家にも陞爵があるよう請願、また勝海舟にも取り成しを依頼したらしく、『海舟日記』の明治22年1月6日の項に「榊原政敬より、伯爵へ転じ度き旨内願書付持参」という一文がある。しかし4度の陞爵請願はいずれも不許可に終わった。 政敬には男子がなく、はじめ岡田家から政善を養子に迎えた。後に婿養子とした旗本榊原家(本姓は花房)出身の榊原政和が家督を継いでいる。 16代・政春は、東京帝国大学法学部を卒業し、貴族院議員。邸宅は東京市杉並区和泉町にあった。大戦中は、台湾拓殖会社に勤務。戦後は企業の法律顧問を歴任した。現当主の17代・榊原政信は会社社長の傍ら、榊原ゆかりの4都市持ち回り(上越・館林・豊田・姫路)で30年以上実施している「地方創生」意見交換会にも参画。 駿河の榊原氏 - 三河国の榊原氏の一族で、江戸時代に交代寄合の旗本となった氏族。榊原長政の長男・清政の子、照久が徳川家康に仕えて、駿河国有渡郡久能に住んだことにはじまる。久能山東照宮の宮司を務めた照久は従二位の高位に上っているが、次代の照清から神職を辞して久能山東照宮門番職を世襲するようになり、以降の当主は従五位下に叙される1800石の旗本。幕末維新期の当主榊原照求は維新に際して朝廷に早期帰順して朝臣に列し、本領を安堵された。当初は旧交代寄合として一般旗本より高い中大夫席を与えられたが、明治2年12月に中大夫・下大夫・上士の称号が廃止されるに伴い、一本旗本と同様に士族編入。明治3年11月19日の太政官布告第845号に従い、江戸期の従五位下の位階を返上。その後は一般人なので足取りを追うのは難しく没年も不明だが、『旧藩執政職功労一門末家履歴等取調書』によれば、少なくとも明治16年時点では照求は生存しており、静岡県有渡郡に在住しているようである。 榊原忠之 - 旗本。大名榊原家(式部大夫家)の本家筋である榊原忠次(松平広忠家老) - 忠政(徳川家康人質時代からの小姓)の家系。勘定奉行、江戸北町奉行、大目付を歴任。長男は勘定奉行や新潟奉行の榊原忠義。 榊原忠職 - 旗本。勘定奉行。水野忠邦の下で天保の改革を推進。 榊原政殊 - 収城目付や書院番を歴任。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】匿名さん |
| 鹿子島さん |
| 埼玉県にも見られる。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】Tamanoumaさん |
| 三ツ掘さん |
| 神奈川にいる |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】たか芝さん |
| 清さん |
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清は富士宮市上野と富士宮市芝川の2系統あります。
我が家は数百年続いている上野系統の清ですが先祖は関西地方出身で武家や僧のご先祖様が多かったのをお墓で確認することができました。 芝川の清は農民出身と聞きました。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】チャッピーさん |
| 数又さん |
| 北海道伊達市にも見られる |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】keep1964さん |
| 戸沢さん |
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戸沢氏(とざわし)は、武家・華族、陸奥国・出羽国を支配した国人・戦国大名であり、江戸時代には出羽国新庄藩主を世襲、明治維新後華族の子爵家に列す。 戸沢氏は平忠正の子、平維盛より始まり、大和国三輪を本拠地とする。その子平衡盛の代に、木曾義仲に属したが、その不義を憎んで奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向した。 1185年に源頼朝に臣従、屋島の戦いや奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えて戸沢氏と称す。 1206年、戸沢兼盛は、南部氏から攻められ滴石(岩手県雫石町)から門屋小館(秋田県仙北市西木町西明寺)に移転。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。以上が『藩翰譜』などが伝える戸沢氏の出自とされる。 家祖とされる平衡盛の「衡」という漢字から、奥州藤原氏郎党だったと言う説もある。衡という字は奥州藤原氏が通字として使用しており、歴代当主以外の人物も用いるもので、衡盛の「衡」は藤原氏からの偏諱を受けて付けていたものと推察できる。また本拠地とされる滴石も、藤原清衡の母方の安倍氏本貫地の厨川に極めて近く、奥州藤原氏一門内部でかなりの地位にあったものと考えることができる。 以上を踏まえ、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主と言うのがその実態であり、奥州征伐の際藤原氏に協力しなかったことで辛うじて家名存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受け、出羽国に移っていったという説が奥州藤原氏郎党説である。 鎌倉時代初期に仙北郡門屋地方に進出し、周囲に勢力を拡大して行った。初め小館を建て、そこから周囲の寺社や豪族を傘下に治めていったものと思われる。本拠地である滴石庄も引続き支配下にあったが中期の頃になると、南部氏の圧迫を受け最終的には南部氏与騎にならなければ存続が難しかったものとみられる。記録上は戸沢氏が桓武平氏を名乗るのもこの頃である。 鎌倉幕府が滅んで建武新政が始まると、公家の北畠顕家が陸奥守として下向してくる一方、足利尊氏の離反と石津の戦いの顕家戦死により、奥羽国人は動揺、それぞれ南朝と北朝別れ抗争が始まる。 戸沢氏は南朝に属し、顕家の弟北畠顕信が一時期滴石城に入っていたとの記録があり、また別の記録では「興国二年(1341年)顕信は、武家方の奥州総大将石塔義房を攻撃するために、葛西・和賀・滴石・河村・南部の兵を動員した」とある。 ここにある「滴石城」「滴石」とはまさに戸沢氏を指しており、戸沢玄盛と推察される。 興国二年の合戦は顕家の敗戦に終わり、顕家は滴石城に入城した後、出羽国へ去った。この時に滴石の兵も従ったとある。 南部氏側資料に拠ると「南部晴政の代に滴石に進出し、敵方を出羽に追いやった」の記録があり、戸沢家譜に拠れば応永30年(1423年)、戸沢家盛の代に本拠地を角館に移したとする。 何時本拠地を仙北郡門屋地方に移したかは定かではあらずまた、別資料に拠れば「角館戸沢氏」「滴石戸沢氏」と仙北地方、滴石にそれぞれ戸沢氏がいたことが推察される。 興国二年合戦以後、南部氏が北朝方に寝返り、また北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となって、この際仙北地方に移ったと推測される。但し滴石庄を失ったようではなく、そこにはむしろ庶流を置いていったものとみられる。 その後戸沢氏は、門屋城を根拠地として南朝方の武将として各地を転戦したようであるが、戸沢英盛代の延文元年(1356年)には鎌倉へ出仕。この頃には既に他の武将達同様に北朝方に転向し時代を生き抜いたようである。 仙北郡門屋地方に本拠を置いた戸沢氏は、門屋城を根拠地とし、周囲にいくつもの出城を構築してネットワークを形成、門屋地方の領国基盤を強化して行く、その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指して行った。 中世前期戸沢氏の動向については、『戸沢家譜』など以外には確証がないが長享3年 神宮寺八幡宮(現大仙市神宮寺)を再興し、棟札に名を書きとどめた「平朝臣飛騨守家盛」は戸沢氏当主であったものと思われ、これが初見史料となる。 角館に本拠を移転した時期については諸説ある。 応永年間 ※室町時代中期 天文年間 ※戦国時代中期 応永年間の説は戸沢家譜に「応永三十一年に戸沢家盛が角館に柵を築く」とあり、付近の神宮寺八幡宮に「平朝臣飛騨守家盛」の記録があることが根拠であるが、応永年間の仙北郡は南部氏、小野寺氏が争っている最中であり、そこに戸沢氏が割って争っていたとは考え難い。 天文年間の説は南部氏文書の「南部晴政の代に滴石に進出し、敵方を出羽に追いやった」という記録が根拠である。ただしそこから豊臣秀吉の小田原征伐までわずが40年の猶予しかなく、その間に仙北郡全域を掌握できたとは考えられない。 『戸沢氏系図』によると「正員の子政保が角館に柵を移す」とあり、家譜と比較すると文明11年(1479年)に家督を継いだ戸沢秀盛の頃である。 また、神宮寺八幡宮の「平朝臣飛騨守家盛」の記録も、長享3年(1489年)と秀盛の治世の頃である。以上の事より、戸沢氏の角館移転は文明年間と考えられる。 応仁2年(1468年)南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退する。 戸沢氏は北浦郡の統一に成功、仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏さらには安東氏との抗争を開始する。 明応5年(1496年)に大曲地方への進出をかけ、安東忠季と戦う。秀盛は弟の戸沢忠盛に二千の兵を与えて淀川城の守備に就かせる。 両軍は唐松野で激突したが引分けに終わり、永正年間には小野寺氏と戦う。両者一歩も退かぬ長期戦となり、最後は楢岡氏仲介で和睦。 大永7年(1527年)には、再び安東氏と激突、この合戦は安東氏の謀略により、家中分解の危機に陥ったが、何とか引き分けに持ち込む。 この合戦で戸沢氏家臣の結束は強まり、戦国大名化に成功。 享禄2年(1529年)、秀盛死去。後を戸沢道盛が継ぐ。僅か5歳であった。 秀盛の後を道盛が継いだが、僅か5歳と幼く叔父の忠盛が角館に入城して後見人を務めることになる。ところが忠盛が宗家奪取を企てて道盛と生母(楢岡氏出身)は城外に追放された。 この一方的な謀反は家臣団や周辺諸侯の支持を得られず、楢岡氏を中心に六郷氏・本堂氏・白岩氏らが結束して忠盛に圧力をかけ、道盛の角館復帰、忠盛の淀川城退去で決着。 天文10年(1541年)、小野寺氏が北浦郡攻略を開始した。 天文9年(1540年)に本宗地滴石を失陥し、更に天文14年(1545年)には淀川城を安東氏によって奪われており、戸沢氏最大の危機的状況であった。家臣団も降伏やむなしの雰囲気だったとされる。しかし道盛母の奮起と、それに応えた家臣団の必死の抵抗により小野寺氏は以上の攻略を諦める。 天文16年(1547年)、淀川城を奪還し、荒川城をも攻略、大曲土屋の富樫氏を臣従させることにも成功。 元亀元年(1570年)には、富樫勝家に高畑に築城させて小野寺氏への逆襲を開始した。 こうして戸沢氏勢力は、北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定。道盛は本堂氏女と結婚した。 道盛の子戸沢盛安は、小野寺氏や秋田氏などと戦い勢力を拡大、勇将として「鬼九郎」の異名をとる。天正18年(1590年)には、豊臣秀吉の小田原征伐に従軍、陣中で病没。 家督相続した弟の戸沢光盛は、豊臣秀吉から本領北浦郡4万4000石を安堵。しかし文禄元年(1592年)にら朝鮮出兵の途上播磨国姫路城で病死。光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督。 秀吉の死後政盛は、徳川家重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結んで徳川方へ急速に接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して最上氏と共に西軍の上杉氏と戦う。しかし消極的だったと咎められ、常陸国松岡4万石へ減転封。 松岡藩転封後も政盛は、正室真室御前の兄弟鳥居忠政の次男又三郎定盛を婿養子に迎え(ただし相続前に死去)、鳥居氏との関係強化を強める。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城の守備、翌20年の大坂夏の陣では鳥居忠政とともに江戸城の留守居役を命じられたため、本戦には参加せず。 元和8年(1622年)に山形藩主最上家が改易となり、その領地に鳥居忠政(山形藩22万石)、酒井忠勝(庄内藩14万石)、松平重忠(上山藩4万石)、酒井直次(左沢藩1万石)などとともに、戸沢政盛が、2万石加増のうえ出羽国新庄に移封。 さらに寛永2年(1625年)には出羽国最上郡・村山郡2郡において新田8200石を加え6万8200石に高直しされた。以降この表高で出羽国新庄藩主家として廃藩置県まで存続。 最後の新庄藩主正実は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で当初奥羽越列藩同盟側につくも、同年7月に久保田藩主佐竹家が同盟脱退と奥羽鎮撫総督府軍への参加を決定、戸沢家もそれに続いて総督府軍に転ずる。 緒戦では賊軍の領内侵攻を受け新庄城が落城するなど苦戦を強いられたが、その後各地を転戦、糠塚山や苅和野などの戦闘で賊軍に対して勝利をあげ、居城を回復。 戦後正実は、その勇戦を称えられ明治2年(1869年)6月19日に賞典禄1万5000石を下賜。 同日に版籍奉還に伴って新庄藩知事に転じ華族に列、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県に伴って罷免されるまで藩知事に在職。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で2607石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄(2607石)と賞典禄(実額3750石)の合計6357石と引き換え支給された金禄公債の額は、7万380円55銭7厘(華族受給者中95位)。 明治前期の忠敬の住居は東京府麻布区森元町にあった。当時の家扶は、中村英慶。 明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として正実は子爵に列せらる。 明治29年に正実が死去、維新の功により従二位が追贈。 その孫の正己は貴族院の子爵議員に当選して務める。彼の代の昭和前期に戸沢子爵家の住居は東京市小石川区丸山町にあった。 |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】匿名さん |
| 㓛刀さん |
| 札幌市にも見られる |
| 【投稿日】2026年02月05日 【投稿者】keep1964さん |
| 矢頭さん みんなの家紋のはなし |
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【家紋名】三つ星? 【都道府県】福岡県 虎千代さん 御親類の家紋でございますが、紋名は『三つ割り梅鉢(みつわりうめばち)』と呼びます。 |
| 【投稿日】2026年02月02日 【投稿者】長岡さん |
| 和田さん みんなの家紋のはなし |
【家紋名】丸に割三引両 【都道府県】神奈川県 三浦の三浦家が先祖と聞いてます。うちは三浦家の重臣の娘が落ち延びて苗字を継いだらしいです。父が次男なので、もう分家ですが。 |
| 【投稿日】2026年01月31日 【投稿者】わさん |
| 木下さん みんなの家紋のはなし |
【家紋名】五七桐 【都道府県】東京都 後陽成帝から下賜された家紋を受け継いだ一族の末裔だが、豊臣姓の木下を名乗る前は平氏杉原性を名乗っていた。 杉原孫兵衛の妹が浅野家の養女となって後の豊臣氏の北政所高台院となった縁で木下姓を名乗るに至り、維新後も二家が子爵家として名を残した。 系譜は徳川幕府が編纂した寛政重修諸家譜にも記されている。 元々は平氏であり豊臣政権下で豊臣姓となっているが、子孫を残す多くの地域では平氏と豊臣氏の両姓を名乗っていた家もあるようで、肥後豊後備中にその形跡がある。 子爵家の墓所は足守と日出にあるが、一族の一部は高台院終焉の地でもある京都東山高台寺に墓所を構えている。 なお、日出の昭和時代の当主は天皇陛下(裕仁陛下)の御学友であった。 |
| 【投稿日】2026年01月29日 【投稿者】ヂイさん |
| 村上さん みんなの家紋のはなし |
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【家紋名】中陰蔦に上り藤 【都道府県】宮城県 武士だったとの事。 どこにも家紋が載ってない。 |
| 【投稿日】2026年01月26日 【投稿者】彦根さん |
| おがさわらさん みんなの家紋のはなし |
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【家紋名】ふめい 【都道府県】青森県 着物に染め抜き 中に菱 |
| 【投稿日】2026年01月24日 【投稿者】おがさん |
| 矢頭さん みんなの家紋のはなし |
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【家紋名】三つ星? 【都道府県】福岡県 親戚の家紋です。三つ星のようですが、周りの模様が分かりません。どなたか、家紋名を教えてください。 |
| 【投稿日】2026年01月21日 【投稿者】虎千代さん |
| 西村さん みんなの家紋のはなし |
【家紋名】花菱 【都道府県】山梨県 清和源氏/甲斐源氏 武田氏族西村氏の祖の【新羅三郎義光『手島義光』】の家紋。 |
| 【投稿日】2026年01月21日 【投稿者】鳥堂の友達さん |
| 原っちさん みんなの家紋のはなし |
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【家紋名】植物の丸に装飾された扇 【都道府県】京都府 何かの植物の丸の中に装飾された扇 苗字:原川 祖母:新井 大祖母:前田(広島 呉) |
| 【投稿日】2026年01月14日 【投稿者】チャコさん |
| 金光さん みんなの家紋のはなし |
【家紋名】丸に隅立て四つ目 【都道府県】山口県 母方が金光(カネミツ)で、従前本籍が岩国市。親戚の言い伝えによれば、吉川氏が広島県の北広島町から岩国へ移封されてきたときに、移住してきたとのこと。 |
| 【投稿日】2026年01月14日 【投稿者】天照皇さん |
| 乾さん みんなの家紋のはなし |
【家紋名】花菱 【都道府県】青森県 清和源氏/甲斐源氏【武田氏族の祖】南部一族津軽氏流乾氏の祖の【新羅三郎義光『手島義光』】の家紋。 |
| 【投稿日】2026年01月10日 【投稿者】鳥堂の友達さん |
0120-750-771










